生命について考えてみた。きっかけは、ある。まずそれについて話そうと思う。
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生命について考えてみた。きっかけは、ある。まずそれについて話そうと思う。
まず僕は普段から、親に殴られていた。世間一般に言う家庭内虐待とは違う、と思う。そこまで毎日理不尽に殴られてない。必ず怒られた時に、そこまでやる必要ある?ってくらい殴られる。
でも悪いことをしたのは僕だから、文句は言えない。この前「肩を揉め」って言われて「無理」って答えたら1発叩かれた。イラッとして少し反抗的な態度を取るように近くの椅子を蹴ったら、背の硬い本を何冊も顔に投げられて、我慢してたけど凄く痛かった。
でもそこで泣いたら負けな気がして、だから僕は平気なフリして自室に戻って、痛みと悔しさでワンワン泣いた。親は「人の金で飯も食えて家に住ませて貰っている分際で反抗するな」って言葉を盾に僕に本を投げた。でもそれは事実だったから、僕が穀潰しなのは自覚してたから、それが本当に悔しくって、でも家出とか自殺とかそんな勇気はなくて。
だからただ泣いた。それで「こんな親なんか死ねばいいのに」って強く思った。
でも自分の心っていうのも不思議なもので、次の日はプリプリしてたのに2日3日経つと一緒にレストラン行ったり、買い物したり、どちらかから謝罪した訳でもないけど有耶無耶になった。
5日?経った時かな。親が「凄い眠気、気絶しそう」ってテレビ見ながらソファーで呟いてて、僕は引き戸1枚隔てた隣の部屋で勉強してた。初めは何となく聞き流してたんだけど、そういえばさっきまでテレビ見て笑ってたのに静かだな、テレビの音しかしないなって思って、引き戸を開けてソファの方に行ったんだ。
そうしたら親は、布団を顔を隠すように頭まで覆ってて、その姿はなんだか通夜の時に見かける遺体の顔に掛ける白い布を連想させて、僕は物凄い恐怖感を覚えた。
死んでる?もし今この布団を剥がして、息をしていなかったらどうしよう。最後の言葉はなんだっけ?ああ、「犬のトイレシーツ変えて」って言われて、「今勉強してるから後で」しか言ってない。「ドーナツ食べる?」って聞かれて、鬱陶しくて無視しちゃった。
それらしい最期の言葉、何一つ言えてない。
そう気付いた瞬間、本当に怖くて悲しくて涙が自然と流れた。
僕は現実逃避するように自室に戻って、YouTubeを再生した。10分の動画を、2つ。3つ目が終わったらあの布団を剥がしに行こう。そう決めて、3つ目を見終えた。
僕は戻って、恐る恐る布団を剥がした。「…お母さん?」反応がなかった。僕はそっと顔を近づける。でも顔を近づけただけじゃ、息をしてるのかしてないのかも分からなかった。次にトントンと叩いた。そしたら、目をパッチリと開けて、「今何時?」って聞いてきた。僕はその時冷静を装っていたけど、後から、親の死がぐるぐると頭を侵略していた。
ふと、スマホアプリで、「残りの寿命を可視化できるアプリ」というものを見つけて、親のマイナンバーカードを確認して生年月日を入れた。アプリには「使い終わった命:60%」と書いてあった。60%。その数字が酷く重く感じられた。試しに僕の生年月日を入れてみた。23%だった。この差は、生きた時間の違いである。僕が産まれる前にも親は親としてでは無く一人の人間としての人生がそこにあった。そして僕の親として、僕は子として、新たな人生が始まった。僕が産まれる前の人生について僕が言及することは許されない。関係がないからだ。
それなのに僕は「死ねばいいのに」なんて、過去の人生を侮辱するような酷いことを考えてしまった。どんなに嫌いでも、どんなに殴られても痛くても、親なんだ。死んだら、悲しいんだ。その事にようやく気づいた。気付くには遅かった?早かった?それは分からない。でも少なくとも、気づけて良かったと思ってる。
最近の若者の間ではとかく「死」をテーマにした物が多い気がする。確かに、死はお涙頂戴の展開を簡単に作らせてくれる。でも、本当にそんなに気軽に、手軽に扱っていいものなのか、もう一度考えたい。
「死にたい」ってたかが4文字をTwitterなんかで呟いてる人は、本当に死にたいんだろうか。死ぬ気があるのだろうか。たかが4文字、されど4文字。僕らはこれを決して軽く見てはならないと思う。
生きるのは辛い。僕も本当はこんな家早く出ていきたい。家族なんて嫌いだし、出来ることなら一人でいたい。でもリアルな親の死が目の前に来て、僕は本当に、本当に怖かった。死を簡単に見なしすぎていて、それが現実になった時の心の準備が何一つ出来ていなかった。多分未来で、本当に親が死ぬような事があったら、僕は今でも親のことは嫌いだしいなくなればいいと思ってるけど、それでも泣くんだと思う。喚き散らすんだと思う。だって一緒に過ごしてきた四半世紀は偽物なんかじゃないから。
でも不思議なことに、親の死はこんなに悲しくて怖くて、まだ死んでもないのにその時を想像して涙が出てくるのに、自分が死ぬのは何一つ怖くない。というか想像が出来ない。
これは、僕たちが平和な世界に生きているからだと思う。例えば戦時中に、いつも爆弾が降ってきていつ身体が燃えたり、バラバラになったりするか分からない恐怖に怯えながら生きていたら、きっと死ぬのは凄く怖いと思う。それは、死が常に身近な存在になっているから。現代の僕たちは、死がはるか遠い存在になっていて、それでいて安全な世の中だから。だから死を軽く見たり、ファッションみたいに扱ったりしてる。ユニコーンみたいな伝説の存在だと思ってる。
それが一度、身近な存在になってしまったら、僕達はそのギャップにやられてしまうんじゃないかって、そう思う。受け入れられなくて、だから心に負うダメージも大きくなるのかもしれない。立ち直れなくなるかもしれない。
この地球を生きる生命皆に言いたい。
どうか自分を大切にして欲しい。死をファッションにしないで欲しい。1つしか無いものを、どうしてそんなに乱暴に扱おうとするの?
かけがえの無い奇跡なんてそんな綺麗事を言うつもりはない。でも、死んだら終わり、それは事実だ。「死にたい」とか、「死ねばいいのに」とか、絶対に思ってはならない。それは自分自身への、この世界を生きる人たちの人生への侮辱になる。
少なくとも僕この親の臨死体験(臨死したわけではないがそう名付けた)を通じて、それを強く感じた。変わらないよ、今も親は嫌いだ。でも死ねばいいのに、と思うことはもう二度とないと思う。死ねばいいのにって思って本当に死んでしまったら、僕は壊れてしまう気がする。これを書いている今も涙が止まらなくて視界がぼやけてる。何が悲しくて泣いてるのか分からないけれど、それでも生命に対しては尊敬して、生きていこうと思う。
親が死んだら、いや死ぬ前に、やっぱり親に僕を産んでよかったって幸せになって欲しい。だから死を大切にしようと思う。
これが何の変哲もない人間が体験した、生命に関する考え、の話。
「死」が最善になることがおかしいってことじゃねえの?要は死を手段にするなってことだろ